三十路男子のリアル西千葉ライフ
Vol.8 自縄自縛というやつは

Vol.8 自縄自縛というやつは

2017.08.03

暑い日が続いておりますが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。おかげさまで、わたしの娘は相変わらずすくすくと成長し、もう6ヶ月になりました。以前記事を書いたときからは、状況も大分変わってきています。今回は、娘が「泣く」ことついて書こうと思います。

赤ちゃんが生まれた当初からできること。それが「泣く」ことです。お腹が空いた、オムツが気持ち悪い、というような、その状況を変えたいという欲求が生まれたとき、赤ちゃんは泣きます。最初は鳥の雛が餌をねだるのに近いというか、何かあれば泣くという感じで、純粋な欲求のみを感じるものでした。これが6ヶ月も経つと大分変化してきます。最初のシンプルな欲求に加え、「寝転がっているのに飽きたから座りたい」「寂しい」といった感情も混ざって、今や泣き方のバリエーションは多種多様になりました。

多くの場合、泣いている理由は大体わかるので、その欲求を満たしてあげると泣き止みます。でも、想定が外れたりすると大変です。例えば夜、ご飯を食べた後。眠そうな感じで泣き出したと思って、奥さんが寝室で寝付かせようとしますが、これが全く寝ない。ゴロゴロ寝返りを打ったかと思うと、泣き出したりします。また、遊んでいる最中泣き出したとき。大抵は座らせてあげたり立たせてあげたりと、姿勢を変えてあげると泣き止んだりするのですが、幾つか試してみてもなお、泣き止まないこともあります。極め付けは、うまく眠りにつけないときです。寝かしつけがうまくいったかと思っていると、泣き出す。ちょっと眠って、また泣き出す。これが何十分かおきに起こったりすると、もう堪らない。結構しんどい気分になったりもします。

こういうとき、大抵わたしの心の中には「なんで〜〜しているのに寝ないんだろう」という思いが去来しています。生まれて半年も経ち、「泣く」バリエーションもわかってきたのに、なぜこのアプローチをしても寝ないのか。何が原因なのか。何がいけないのか。こんな風に考えてしまうと、もう疲れてしまいます。せっかくやったことが灰燼に帰した気がして、泣いている娘を見ながら切ない気持ちになってしまったりもするものです。

ここで思い出したのが、生まれたばかりの娘と接していた頃の自分たちでした。最初はそれこそ泣いたらおっぱいをあげるかオムツを変えるかしか選択肢がありませんでしたが、少し時間が経つと、それらをやった上でもまだ泣き出したりすることがありました。どうして泣いているのかわからないところから始めて、いろいろ試して見た結果、どうやら眠くても泣くのだということで、抱っこをして寝かせる、という選択肢が増えることとなったように記憶しています。

そもそも、どうして泣くかわからないところから試行錯誤してやってきたのでした。最初の頃は、「なんで〜〜しているのに寝ないんだろう」などということは思わず、AがダメならB、BがダメならCと、とにかくいろいろな選択肢を試していました。で、泣き止んだなら、そのときはそれが「正解」だった、ということの繰り返しです。シンプルに試すオプションを変えていくだけなので、体力的な大変さはありましたが、変に切ない気持ちにはなりませんでした。

これが慣れてきて、どんな泣き方のときに何を求めているのかがわかってきたような気になると、先ほど触れた想定が、言い換えれば期待というものが、そこには生まれ始めます。「〜〜すれば、きっとこうなるはず」と無意識に思うようになってきます。「正解」に至るスピードが速くなれば効率的ですし、最初から「正解」に行きつくことも増えてきますから、どんどん楽になってきます。でも、この期待が裏切られたとき、体力とは違う、別の辛さが生まれてくるというわけです。

でもこの辛さって、全てはわたしが自前でこしらえているものだったりするのです。娘はそもそも生きているだけ、何かしらの欲求があって泣きだしているだけです。たまたまこちらがある程度泣き方を判別できるようになったのかもしれませんが、それだって実際理解できているかどうかなんてわからない。娘の欲求はこれまでも、そしてこれからも多様化していくわけですし、その瞬間、何をしたいか、何を求めているかなんて、突き詰めて考えれば、正直何もわからないわけです。そして娘はそもそもこちら側の期待を知る由もないし、裏切ったかどうかなんていうことも関係ない。勝手に慣れた、わかった気になって、自分が取る行動の結果を娘に期待し、それが「裏切られた」と「思った」ときに、余計にしんどくなる。つまるところは自縄自縛、というわけです。

娘との暮らしから書きましたが、こういった構造は日常にかなり潜んでいるのではないかと思います。何かに慣れたり習熟したりするのはいいことですが、物事は常に変化していきます。自分の中に当たり前ができてしまうと、物事がふと変化したときに、その当たり前が毒になるということもある。しかもこの毒は、自分でも知らないうちに生み出しているものだから、非常にタチが悪いわけです。

どんなことでも、突き詰めれば「わからない」。だからそこから始めてみる。すると、「期待」と「裏切り」の自縄自縛から解放されるのかもしれません。「〜〜しているのに、なんで」ではなく、「これがダメだったら、次はこれ」と思うようになったら、恨み言も減って心も軽くなりそうですね。ということで、まずは娘について「わからない」ということから始めてみようと思います。

三瓶 伊万里
三瓶 伊万里 | 記事一覧

1984年、福島県生まれ。大学がリベラルアーツを標榜することから、所属は教育学科ながら、他領域の学問にも自由に触れる経験をする。07年に住友商事(株)に入社、鉄鋼事業に従事する。サラリーマンとしての暮らしの在り方に疑問を持ち始め、まちづくりに携わりたいという想いを強くする中、同社を12年に退社。同年(株)北山創造研究所に入社する。14年には同社を退社、現在は新たな社会の在り方を研究しながら、実践の可能性を模索している。

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