大きく小さく「こども」を考える
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Vol.6「子育て」という言葉から

2017.01.10

新年が明けてもう1月も半ばに差し掛かろうとしておりますが、みなさん年末年始はどのようにお過ごしになられたでしょうか。きっと清々しい心持ちで新年を始められたことと思います。わたしはと言えば、今年は初めて、福島にある実家には帰らず、千葉で年を越すことになりました。何を隠そう、奥さんの出産が迫ってきているからです。まだ生まれてきてはおりませんが、大きくなったお腹を目の前にしながら、日々ドキドキしております。

親になるということが迫ってくると、自分の目に入ってくるものも変わってきます。以前は意識の蚊帳の外にあったオムツのCMが、今ではやたらと目につくようになりましたし、人の親になっている方の話にも、俄然興味が湧くようになりました。飲みに行っても、結婚によって何が変わったか、また、妊娠や出産にまつわる話をすることになります。そして最近気になってきているのが、「子育て」です。

来たる奥さんの出産を経て、自分の元にこどもが生まれてくれば、もう「子育て」のフェイズに入ることとなります。ご飯を食べさせ、お風呂に入れてあげ、オムツを替えてあげるなどのお世話をすることになるのでしょう。こどもはそのうち寝返りをうち、ハイハイし、歩き出すようになるはずです。そして次第に話すようにもなってくる。そうすれば、パジャマの脱ぎ着、箸の使い方、ものの名前など、色々なことを教えたりするようにもなっていくのでしょう。直面しなければわからないものだとは思うのですが、人から話を聞きながら、また、実際に友人のこどもたちの様子を目にしながら、迫りくる「子育て」の各シーンを勝手に想像し、心の準備を進めている、というわけです。

以前わたしは、このコラムの第一回で、「今後その社会を担い、築き上げていくのは、今のこどもたち」であり、「少なくとも、どんな人が社会を担っていくことになるのかについては、多少アプローチの可能性もあるのかもしれない」から、「未来の社会の担い手たるこどもたちについて考えたい」と書きました。このようなことに関心があるので、どうしても「子育て」が、そしてその過程で、こどもに対してどんな機会を提供するか、どんなアプローチをしたらいいのかということが気になってきてしまいます。言葉遣いに気をつけた方がいいのかしら、といったことから始まり、果ては習い事、幼児教育、おもちゃ選びと、想像し始めると、考えは尽きないものです。

そんなこんなで、まだ到来してもいないのに色々と気になっていた今日この頃でしたが、ふと、先日聞いた、ある話を思い出しました。昨年の10月に、仕事絡みでやりとりがあった方々との飲み会に、約2年振りにお会いした方がいらっしゃいました。その方は、仕事で関わりのあった当時は産休に入る直前で、今では2歳になるお子さんを持つお母さんとなっていたのですが、わたしは「子育てはどうですか」と聞いてみました。その頃は人と会う度にこのざっくりした質問をしていたのですが、大抵の場合は「楽しい」「大変」といった、その人自身が「子育て」をしていてどう感じるかであったり、もしくは具体的にどんなことをしているかについての答えが返ってくることが多かったと記憶しています。この時もそのつもりで質問をしたのですが、返ってきた答えは予想していたものと異なり、「こどもは自分で育っていくものですよ」というものでした。

彼女曰く、親である自分は食べ物・栄養を与えているだけで、こどもは自分で勝手に育っていくものだ、と。また、こどもが日々変わっていく、刻一刻と成長していく姿が新鮮で、自分にとっての発見や感動があるので、寧ろ自分が人間として育ててもらっているような感じさえする。だから、今の時点で母になって楽しかったと思うし、こどもに対して「ありがとう」と思うんです、ということでした。自分が想定していることとは別の視点での答えだったということに加え、このような内容を、別に対したことを言う感じでもなく、ちょっと楽しそうなくらいの、いたって普通のテンションで仰られていた様子が非常に印象的でした。そして、「親である自分は食べ物・栄養を与えているだけ」というスタンスが、とても素敵だなと感じました。

わたしが、こどもが生まれていない中堂々巡りで考えていたのは、先に触れた、生まれてくるこどもに対してどのような環境や機会を提供するか、ということでした。自分の気持ちを見返す限り、多分これは、「良い」環境や機会を提供したい、という話なんだと思います。でも、この「良い」というのが曲者で、自分を振り返って思うのは、いくらこどものことを考えているとは言え、あくまでもその「良い」が「自分本位」である、という前提であることを忘れがちだということです。

もちろん、親が提供しなければ、こどもが得られない環境や機会もあります。その意味で、環境や機会の提供者としての親の存在は、こどもにとって非常に重要なんだと思いますし、責任も重大です。親の存在意義は大いにあるのだと思います。が、提供されたものにまつわる良し悪しの判断は、あるいは、好き嫌いの判断は、最終的にはこども側にあるんだろうな、ということが、無意識にすっぽり抜けていたのではないか。彼女のスタンスが素敵だと感じたのは、そういった無意識の、こどもに対する彼女の「自分本位」がない軽やかさ、そして、こどもの有り様をそのまま受け止めるような、柔らかさを感じたがゆえだったのではないかと思います。

あるものが「良い」もので、それを是非享受してほしいとなれば、きっと熱心に薦めることになるのだと思います。でも、薦められた本人が求めているものでなかったとしたら、きっと受け取り難いものになってしまうのではないか。例えば「勉強」なんかはそうかもしれませんね。わたしが高校生の時分、個人的に聞いた話ですが、勉強嫌いの友人の多くは、親から勉強しろと言われたことがその理由だったそうです。

 

また英語の諺になってしまいますが、「You can lead a horse to water, but you cannot make him drink」というものがあります。「馬を水辺に連れていくことはできても、水を飲ませることはできない」、つまり、本人の意思がなければ、無理やり何かをやらせることはできない、という意味となります。それこそわたしたちができることは、できる限りのサポートであり、真摯に向き合うことであるくらいで、あとは変に考えすぎなくても、こども自身のポテンシャルを信じて、任せちゃったらいいんじゃないかしら。そんな風に思うと、なんだか気が楽になりました。

と、こどもが生まれる前から、また色々と考えさせられてしまいました。先のお母さんも仰っていましたが、「子育て」という言葉はあれど、結局色々と考えさせられる自分の方が、育ててもらうことになるのかもしれませんね。ということで、わたしの無意識の「自分本位」に気をつけつつ、こどもの誕生を楽しみに待っている今日この頃でした。

三瓶 伊万里
三瓶 伊万里 | 記事一覧

1984年、福島県生まれ。大学がリベラルアーツを標榜することから、所属は教育学科ながら、他領域の学問にも自由に触れる経験をする。07年に住友商事(株)に入社、鉄鋼事業に従事する。サラリーマンとしての暮らしの在り方に疑問を持ち始め、まちづくりに携わりたいという想いを強くする中、同社を12年に退社。同年(株)北山創造研究所に入社する。14年には同社を退社、現在は新たな社会の在り方を研究しながら、実践の可能性を模索している。

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