三十路男子のリアル西千葉ライフ
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Vol.5 自分の敵は自分だという話

2016.12.13

前回は、自分の結婚生活について書かせていただきました。仕事の関係で西千葉に暮らし始めて早3年半ですが、まさかこの街で結婚することになるなんて。手前味噌で恐縮ですが、自分としては結構感慨深いものがありました。そもそも、西千葉に暮らすこと自体全く想像していませんでしたし、特に始めの頃は、自分の中に色々と葛藤があったからです。今回は、そんなこんなで思い出した当時の葛藤とその周辺について書いてみようかと思います。

ぼくが西千葉に暮らし始めたのは2013年の6月。以前別のコラムで書いたLOVE PARKを始めるタイミングで引っ越してきました。LOVE PARKと言っても、私有地の周りを囲うフェンスの一部を取り外し、中にアート作品を設置してあるだけの状態です。生い茂る雑草やポイ捨てされるゴミの処理が常に必要になります。また、クローバーの種を蒔いたから水遣りも必要だし、他にも何か対応が必要になるかもしれない。この辺りの現場対応が、西千葉に暮らし始めたぼくの最初の仕事でした。まあ非常に地味な仕事です。

私有地を囲むフェンスが取り外され、アートが設置されていた

私有地を囲むフェンスが取り外され、アートが設置されていた

現在西千葉工作室トンネル図書館となっている場所には、当時は何も入っておらず、その奥には、小さな机と椅子、そしてLOVE PARKの管理に必要な道具が置いてある事務所スペースがありました(今もぼくたちの事務所となっています)。シャッターを開け、軽く掃除をしてから奥の事務所スペースに向かい、道具を持ってLOVE PARKへ向かう。草むしりやゴミ拾い、水撒きを行ったら事務所に戻り、メールのやり取りや調べ物、場合によっては資料作成を行っているうちに日が暮れる。こんな日々を過ごしていました。

LOVE PARKの現場対応は、もちろん人がいなければできません。当時のぼくからすれば、地味な動きでこそあれ立派な仕事でしたし、パソコンで他にも色々と仕事は進めていました。ですが、端から見れば、何も入っていない物件のシャッターを開け、掃き掃除をする。また、アートが置いてある空き地の草むしりやゴミ拾い、水撒きを行う。しかも一人で淡々と。これだけだと、何をやっているのかよく分からないですよね。興味を持って色々話してくださる方がいらっしゃる一方、怪訝そうな顔で眺めて通りすぎる方、また直接懸念を伝えてくださる方もいる。どこの馬の骨か分からない人間がいきなり草むしりとかをしているわけですから、そりゃあ気になります。自分でもそういったことは想像できているつもりでしたが、実際にその状況に直面すると、なんだか心許ない気持ちになりました。

表向きぼくがやっていることはこんな地味な内容で、物件は空いたまま。LOVE PARK以外については諸々検討中で何も決まっていないという状況でしたので、自分たちの動きについて話せるようなこともない。すると、「何やるの?」「何してるの?」と聞かれても、草むしりやゴミ拾い、そして空き物件をどうするのか「考えている」というようなことしか話すことができない。このようなやり取りを繰り返していると、確かに仕事はしている筈なのに、自分が何もやっていないような、そんな気さえしてしまいます。

「何もできていない」という思いは、自分の心を重くします。気持ちのいい日に草むしりをしていても、ふと「俺は何をしているんだろう」と思ったりすることもあれば、街を歩くときに、また何か聞かれるのではないかと思い、少し胃が痛いような気がしてしまったりすることも。自ずと堅くなり、街で人と接する際には、少し過剰に気を張っていたような気がします。誰かと話しているとふと、「俺のやっていること、話していることは大丈夫だろうか」と頭をよぎるような、変に自意識過剰な状態とも言えるでしょうか。

では「何か」をできていればいいのか。これがまたちょっと違う。例えば、2014年の5月にはHELLO GARDENが、6月には西千葉工作室がオープンしました。ぼくは特に西千葉工作室設立時にサポートをしたということもあり、ちょっと「何か」ができた気もしました。感慨深さも一入。とは言え、先ほど触れた心の重さが取れるようなことはありませんでした。

ぼくは現在も西千葉で仕事をしていますが、この「心の重さ」、今やもう持ち合わせてはおりません。力の抜けた顔をして通りを歩き、コーヒーを飲みながら、居合わせた知り合いと多少話をする。住民として「普通に」生活をするようになりました。思い返してみると、自分が自分として話すことのできる人、つまり、仕事に限らずなんとなく自然に話すことができる人がいる、ということが契機だったように思います。

仕事絡みとなると、相手が「何を」できる人で、「何を」欲しがっている人なのか。そしてぼくが「何を」できて、「何を」欲しがっているのか。この各人の持っている「何か」同士がうまくマッチするかどうかが大切になります。需要と供給というやつです。誰も要らないものは買わないし、無い袖も振れない。これは当然ですし、さして問題のあることではありません。でも、西千葉に来た当初のぼくにとっては、その「何か」を媒介としたコミュニケーションの機会しか持っていない、と「思っていた」ことが、問題だったのではないかと思うのです。

今では、仕事絡みから付き合いが始まった方とも、プライベートな付き合いから始まった方とも、ただ話をする、というようなことが増えました。お互いに話したくて話す場合もあれば、なんとなく居合わせて話す、というような場合もあります。具体的な「何か」を求めて話すのではなく、その相手だから、また、そこにいたから話す。その「何か」を必要とせず、またはそれに関係なく、無条件にその場でお互い関わりあっている感じです。多少条件があるとすれば、その人が「その人」であり、その場に居さえすればいい。この「何か」を介在させる必要のない、束の間の「居場所」とも言えるようなコミュニケーションを重ねるにつれ、ぼくの心も次第に軽くなっていきました。

心が軽くなり始めた当初は、「普通に話せる人がいてありがたい」「友達がいるのって大事だな」とかそのように思っていたのですが、(そして勿論実際そうなのですが、)改めて振り返ってみると、また少し違う思いが浮かんできました。それは、その「普通に話せる人」たちは、ぼくが西千葉に来た当初も、そもそも普通に話せる人たちだったのではないか、ということです。

西千葉に暮らし出した当初、まだ話す人が少なかったぼくにとって、コミュニケーションの切り口は仕事メインでした。街での動きも当然仕事絡みで、暮らしらしい暮らしはしていない。すると、自ずとほとんど全ての物事について、仕事目線で見てしまうようになります。また、自分のやっていることにも、外聞を気にすると、とても自信は持てない。よって、ちょっとした質問、他の人の挙動が不安を増幅し、気持ちの大部分を占めるようになる。そうなってしまうと、至って単純な質問も、自分にとっては「誰か」が「何か」を要請していると「思って」しまう。もしぼくが、そんなフィルターを通じて、周囲の動き全てを「解釈」していたとしたら。誰と話しても気は休まらないし、今普通に話せると思っている人たち(すなわちそもそも普通に話すことができたであろう人たち)も、「何か」を要請する「誰か」にしか見えない。仮にその「何か」をできたとしても、さらに他の「何か」をやらなければいけないという焦燥感に駆られるのだろうと思います。

接する人たちが、実際に「何を」求めているかなんてことは、結局わからないことですし、そもそも自分に対して「何か」を求めているわけではないかもしれない。でもぼくは、ちょっとした不安を下地に、自分の仕事を「外から見たら地味」で「何をやっているかわからない」ものと「思い」、みんなという「誰か」にとってわかる「何か」を形にしなければならないと「思い」、勝手に心を重くしていた、ということになるのではないかと思うのです。つまり、「何か」を媒介としたコミュニケーションの機会しか持たない状態をつくっていたのは、そう「思っていた」自分によるものだった、ということになります。

昨年末、みどり台駅にあるコーヒーショップで、居合わせた人たちと話していたときに、「柔らかくなったよね〜。最初堅くて怖かったもん」と言われたとき、後から少しゾッとしました。ぼくが先に触れたようなプロセスを延々と続けていたとしたら、こんな会話は、今もできていなかったかもしれません。ちょっと恐ろしいですね。

多少大袈裟に書きましたが、結局、自分の周囲の状況がどんなものかと「解釈」し、どんな世界かを決めるのは自分なのではないか。西千葉に暮らしてそのように思い至った、と、そんなことが書きたかったわけです。周囲に「事実」とか「物事」しかない中で、それら全てに意味付けを行っているのは自分自身。そう考えるようになって、大分楽になりました。外に誰も「敵」はおらず、自分しか「敵」をつくり出せないのであれば、そもそも「敵」をつくらなければいいわけですから。まあ、そんなに簡単なことではないのかもしれませんが、と、例えばそのように簡単なことではないと「思う」のも自分の仕業、ということです。こんなことを書き始めると、堂々巡りでキリがなくなってしまいますね。ということで今回は、ここらで筆を置かせていただくことにします。

三瓶 伊万里
三瓶 伊万里 | 記事一覧

1984年、福島県生まれ。大学がリベラルアーツを標榜することから、所属は教育学科ながら、他領域の学問にも自由に触れる経験をする。07年に住友商事(株)に入社、鉄鋼事業に従事する。サラリーマンとしての暮らしの在り方に疑問を持ち始め、まちづくりに携わりたいという想いを強くする中、同社を12年に退社。同年(株)北山創造研究所に入社する。14年には同社を退社、現在は新たな社会の在り方を研究しながら、実践の可能性を模索している。

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