大きく小さく「こども」を考える
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Vol.2 こどもたちの姿に学ぶ

2016.08.09

千葉大学を背にして、その正門からまっすぐ走っている学園通り。歩いていく途中、大きな交差点を千葉方面に曲がると、スーパーマーケットの裏手、住宅地の中に、緑町公園という中規模の公園が見えてきます。公園に入ってみると、小径を挟んでさらに目に入ってくるものが。新しい暮らしのあり方の実験広場、HELLO GARDENです。私有地ではありますが、100坪余りの空き地を使って、作物を育てたり、持ち寄りでのピクニックやイベントなどを行ったりして活動しています。今回は、このHELLO GARDENについて、私が聞いた話で興味深いものがあったので、それについて書いてみようかと思います。

普段、HELLO GARDENで誰かしらが活動している際には、基本的には誰でも入って良いことになっています。活動を始めてもう少しで丸2年。周りにお住まいの方が話しかけてくれたり、ピクニックの際には少し離れたところからも集まってくれたりと、本当に様々な人が訪れる場所になっています。その中でも、地元のこどもたちは活動開始当初からよく遊びに来ています。HELLO GARDENの二人が畑を耕すなどの作業を行っていると自然と入ってきて、遊びに興じたり、手伝ってくれたりするようで、今もそれは続いているとのこと。

この実験広場ですが、当初から最小限のもので運営をしていました。敷地の半分くらいでは作物を育てたりしていますが、最初は外から見てもどんなものかわからない状態。また、畑仕事の道具やそれを収納する倉庫、外置きのテーブル・イス、もらいものの部材以外は何もない状態で、最初周囲の方からは、「何をやるところなのかわからない」「草ばかりで何もないけど大丈夫なのか」というようなコメントをしばしばいただいていました。確かに、建物も立っておらず、作物もまだ育っていないので、何なのかよくわからないというのはご尤も。よくわからない「何もない」土地という印象を最初抱かれていたということを、強く記憶しています。

(最近はイベントでも多くの人が集まるようになり、少しずつ活動内容が伝わり始めているような気がします)

しかし、よく遊びにくるこどもたちに目を向けてみると、この実験広場に対する印象は180度異なるようです。こどもたちの話をよくよく聞いてみると、「HELLO GARDENってなんでもあるね!」と言っているらしい。空き地同然に見られていた、大人にとっては「何もない」この広場が、こどもたちにとっては「なんでもある」場所だそうなのです。

確かにこどもたちが遊んでいる様子には、「なんでもある」感じが見て取れます。土を耕せば、その土や使う道具がおもちゃになりますし、育てている作物の畑に虫がいれば、それはいきなり観察対象に早変わりします。落ちているものを使って遊んでいる場合もあれば、ただ駆け回っていることもある。水道だって遊び道具になってしまいます。特に、HELLO GARDENの二人は、危険な場合、活動に差し支える場合を除けば、こどもたちに何かを強制することはありません。こどもたちが自由を享受し、その創造性を存分に発揮する場があるならば、何は無くとも「なんでもある」ということになるのでしょう。

ブリコラージュという言葉があります。これは、フランスの社会人類学者レヴィ・ストロースが著書「野生の思考」などで使った言葉で、世界中で見られる、用途のわからないものや、本来の用途とは関係ないもの(端切れや余り物、拾ったものなど)で、当面の必要性に役立つ道具を作ったりして間に合わせることを指す言葉だそうです。

こどもたちにとっての「なんでもある」は、実はこの「ブリコラージュ」を体現しているということなのではないか。土を掘り返すことも、枝を拾うことも、草をむしることでさえも、こどもたちは全て遊びに変換します。落ちているもの、使えるもの全てを遊び道具に変えてしまう。遊びのために、その場にあるもので間に合わせる。こどもたちが自身の創造性のもと、「ブリコラージュ」を以って自然とこの実験広場を「なんでもある」場所に変換している。そのような印象を受けました。

この「なんでもある」って、むしろ自分たちで「なんでもあり」にしてしまっているというか、自分がやりたいことに忠実に、その場にあるもので成り立たせてしまうというパワーがあるからできるような気もします。規模は小さいかもしれませんが、自分たちがやりたいことのために、なんでも使ってそれを形にしてしまうというあり方は、よく言われることかもしれませんが、とても創造的だと感じます。

わたしたちは、幼少期から学校生活を経て社会生活を営み、常々社会の規範や物事の定義を学習してきたと思います。そして、社会で生きていく限り、それがずっと続いていく。社会生活を営む上では非常に大切なことですが、一方で起こり得るのが、定義された意味合いでしか物事を考えたり活用したりできなくなる、ということなのではないでしょうか。

前回も触れましたが、昨今、社会が変化するスピードはどんどん上がっているように感じます。現在自分がいる社会の考え方や定義に、無意識に拘泥・固執していると、いつの間にか到来している変化に気づかず、やがて自分を置いて通り過ぎていく、なんてこともあるかもしれない。インターネットやスマートフォンをとっても、大なり小なりそういったことは既に起きていますよね。

そんなとき、物事の定義やら何やらに囚われないこどもたちが、「ブリコラージュ」をテコに「なんでもある」を創造的に実現する、そんな姿を見ると、ふと、どんな時代がやってきても大丈夫なんじゃないか、と思ったりもします。何があろうと、どうとでもしてしまうような、前向きなエネルギーを感じるわけです。そして、それがこれから先、変化の激しい時代を生き抜いていくためのヒントのようにも感じます。わたしたちも、暮らしの一部には、そんな「なんでもあり」な部分を持っていてもいいのかもしれません。

三瓶 伊万里
三瓶 伊万里 | 記事一覧

1984年、福島県生まれ。大学がリベラルアーツを標榜することから、所属は教育学科ながら、他領域の学問にも自由に触れる経験をする。07年に住友商事(株)に入社、鉄鋼事業に従事する。サラリーマンとしての暮らしの在り方に疑問を持ち始め、まちづくりに携わりたいという想いを強くする中、同社を12年に退社。同年(株)北山創造研究所に入社する。14年には同社を退社、現在は新たな社会の在り方を研究しながら、実践の可能性を模索している。

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